昭和42年9月15日 朝の御理解
心で憎んで、口で相すまぬ。心で憎んで、口で相すまぬ。神様は、そういうような心を、そういうような、あー、状態を、神様はお喜びになりません。口ではうまい事言いながら、心では、それとは反対のことを思うておるのである。私はこの場合、そういうようなことが、果たして、えー、ないだろうかというと、あるんです。心では、こん奴がと、こう思いながら、口では都合よう言うておる。いうなら、こん奴がというぐらいならいいけれど、心では、憎みながら、口では都合よう言うておるというような、そういうような心を神様はお嫌いになる。神様は人間の一人ひとり、どういう氏子であろうが、それを、心から愛しておって下さる。心から、どうぞ氏子を、うー、幸せになってくれよという願いを持っておいでられる。ですから、普通でいうなら、人からは、憎まれたり、嫌われたりというような人ほど、神様は、真実神愛の心を持ってみておって下さる。えー、ここが布教所にお許しを頂いて、布教所のおかげを頂きましてから、こっち、御本部の教徒社という御道の新聞を発行しているところがございますが、あちらから、新聞を度々、送って下さるのです。大体、新聞を取ってるんですけれども、それは、布教所であるというので、まあ、大変難儀をしているであろうと、道のいわゆる、伝道のために、布教のために、随分様々な苦労があることであろうと、信者もいないことであろうし、だから、あー、その、布教所である間は、無料で送って下さるという訳でございましょう。人間これは、その、人間に限らず、神様でもそうでしょうけれども、そういう風に、弱いもの、気の毒なもの、力のないものには、どうしてもそういう情が動きたがるものです。ですから、それを教徒社でも、布教に出られたばかりの先生のところ、布教所になったばかりのところ、いわば、布教所から、教会になるまでの間を、無料で新聞をお送り致しますと言う事なのです。で、気の毒、気の毒と言うよりも、有難い、同時に気の毒なことである。こら、私のあたりは、そういう資格はない。というと、沢山な御信者もありますし、えー、普通の教会、まあ、いうなら、以上の機能を持っておりますのでございますから、ただで頂いたんじゃ勿体ないから、今度、御本部参拝するときには、何かその、代わりのもんでも持っていこうと、私は思っておるくらいですけれども、お互いがですね、もう、ほんとに、難儀であれば難儀であるほど、この神様はですね、助けて下さろうという働きが強いのですよ。同時に私のようなものがと、もう、本当に、自分で自分の心を見てから、辟易とするような自分というもの。
昨日は、丁度、時を同じゅうしてお参りされた中に、もう、布教に出られましてから、あー、十年ぐらいになるんでしょう。けれどもまだ、本当に道が開けない。それで、ここへもお参りをされておるのでございます。ところがもう、先生が、あー、大変難しい病気で、現在重態である。奥さんもそれぞれ御道の教師の資格を持っておられますから、そこの親教会から、まあ、それは親心ですよね。せめて、あの人が、まだ生きとる間に、あの人を初代教会長として、もう、教会長にして、教会の看板を上げさせたい。それで、そういう、うー、事を親教会から言われなさったところが、教会になるためにはどうでもその、五人の総代がいるという訳なんです。ね。それは、まあ、五人、十人は参って見えておられるのに違いはないのですけれども、教会を維持されておりますから、まあ、参っておられるでしょうけれども、ほんなら、あーた、総代のおかげを頂きなさいと言うて、総代のまあ、資格をも、資格というと可笑しいですけれども、総代にでもなれと、なってくれというような人がないわけなんです。教会になるためには、どうでもその、五人の総代が必要だと、こういうのです。ところが先生、その適当な人がございません。親教会からは、そう言うて下さるんですけれども、教会としての手続きを取るためには、まあ、あれも足りん、これも足りないという、まあ、状態だとこういわれるのです。ほんとうにまあ、気の毒だと私は思います。けれども私は、そのー、親教会としては、もう、難しかろうというわけですねえ。先生方は。ですから、せめて、まあ、そういう状態であっても、折角、布教にでらせて頂いたのであるから、おかげで、教会にもなった、また、初代教会長でもあったという事にしてやりたいというのが、まあ、親心らしゅうございます。私は、まあ、それよりも、先生自身が健康のおかげを頂かれて、本当に、教会としての機能が出来るようになってなさったらよかろうけれども、親の願いは親の願い、親の思いは親の思いであるから、えー、御信者さん方ににです、それを話してみて、それもほんにそうですなと言うて、五人の総代になられる方たちが、スムーズに出来るような時には、お許しを頂いた時と思うて、えー、なさったらいいでしょうけれども、ね。無理をしてからまで協会になりなさる必要はなかろう、また、初代教会長も、病気であるよりも、健康になられてからのほうがよろしい事ないですかと、こう、申しましたことでございますけれども、本当に、聞いておっても、気の毒なことだと、こう思います。丁度その方がお参りになります、その先生が参られる、ちょっと前に、福岡の箱崎からと言うてお参りをして見えた。先日から、全然思いかけない方から手紙が来ておった。開封してみましたら、えー、自分は、神様から、いろいろお知らせを頂くようになって、もう、十何年になると。その、本当に全国を、ここにお徳の高い先生がおられるというと、わざわざそこまで行って、教えを頂くけれども、まあだ、自分の心の中に、この人こそ、おー、立派な先生だ、お徳の高い先生だという人に、まだお目にかかったことがない。昨日、話を聞いてみますと、金光教だけじゃない、も、あらゆる宗派、宗教の、体得の先生、体得の人がおられると聞くと、そこまで言って、教えを請われているらしい。けれども、自分の心にこの人はとこう、響くものがないと。大体は、雑餉の教会から、あー、御本部に修行に行かれて、十何年前に御道の教師の資格を取っておられる方なんです。それで、ある教会に養子に行かれたけれども、そこの先生というのが、どうも、自分の気に合わないというので、そこを出て、まあいうなら、全国行脚してでも、もう本当の信心をいただきたい、本当の、師匠を得たいと言うけれども、おられるところへ、たまたま、ここのことを聞かれたと言うておるのですねえ。紹介された言うても、私は知らんのです。そしたら、ここから、あの、記念祭の時に、あの印刷ものをお願いしましたですが、そん時に、その印刷やさんから聞かれた。どっか、浮羽郡の田主丸というところに、まあ、こういうその、先生がおられたり、こういう教会があるということを聞かれましてから、是非あの、お尋ねしたいから、よろしくお願いしますと言う手紙が来ておった。それで、昨日まあ、見えられまして、今日も先生方が二人一緒でございましたから、まあ、二人色々とお話をしたんでございますけれども、もう、せっかく、信心によって助かろうとして、御道の教師にまでなられたんだけれども、とても、自分のようなものでは、良い師匠にも恵まれず、うー、もう自分は、もう助かりようがない男であると、こう思われるように最近なったんです。そして、たまたま、ここを聞かれて、ここに見えたわけでございますが、んー、その通りの事を、私がお取次ぎさせて頂きよりましたら、丁度、あの、椎茸が出来ます、あの、椎茸の木がありますよね。それにこう、椎茸がいっぱい生えます。いうなら、その木が、腐りかけておる。それに椎茸がいっぱいついておるというような、そのお知らせを頂いたんです。いうなら、その人の気が腐っておる。腐りかけておる。という事は、気は心というから、その人の、その先生の心の中が、もう、この頃は自分はもう信心で助かられないのだと。もう、五十近い方なんですけれども、何十年間と言う間を、信心、信心で、あーその、神様から色々お知らせを頂かれるけれども、非常に不幸せであると。で、まあ、色々とお知らせを頂かれる。その事について、私、根本的なところからお話をしたんですけれども、その、お知らせさえ頂いたら、御徳を頂いておるといったような考え方をしておられるようでしたから、もう、その事を私は、まあ、お話したんです。と、同時に、この神様はねえ。いわゆる、屑の子ほど可愛いと仰るんです。いわば、貴方が、もう自分は助かりようのない男だと、自分はもう、神様の見放されたんだと、言うような心の状態の時こそ、信心させて頂くものはです。もう、ほんとに、自分のようなもの、助かりようがない、親鸞聖人様が仰ったというようにですね。善人ですら助かっておるのであるから、悪人なら、なおさら助かるといったようなことを言っておられます。善人、悪人においておやというわけである。ね。確かにどの神様もそうなんですよ。善人、善人にならなかれば、善人でなからなければ助からないと。善人だけを愛し賜うという神様ではなくて、いや、それが悪人であれば悪人であるほど、もう自分のような男は助かりようのないと。自分というものはいよいよ、もう、卑下して、ね。自分のようなものは、もうつまらん、もう、助かりようがないのじゃなかろうかと、思っておるような、例えば、人こそ、この神様は愛してくださる神様なんです。それは、人間の情と同じこと。教会になればお金は貰うけれども、布教所ならば、只で新聞を差し上げますといったようなものが、この神様にもあるのです。ね。そこで、ここで分からねばならん事はです。ね。私のような、私のようなものがという事が先ず、わからにゃいけんということです。もう、本当に、思いよら、思いよるほど、自分のような者がと、自分で自分の心が臭いような、ね。心が腐って、心が暗くなるとここで申します。もうそれで、腐りっぱなしになったらつまらん。もう、自分はつまらんからと、すがる気持ちがなくなったらです。つまらん。ね。確かに、やっぱり腐っておられるのであろうと思うた。ここまで、見えられるのが、まあ、経済的にも、やっとかっとといったような感じなんでした。もう、その御初穂すらが出来ないというような感じでした。ね。けども、そういう人でもです。御初穂をしなければ、御理解やらん。ね。こう、お供えをしなければ、おかげはやらんといったような神様では、絶対にないという事です。お供えが出来ないならば、出来ないほどしの、人ほどならば、返って助けてやりたい、おかげは、いわば、只でやりたいというような神様なんです。もうそれは、お世辞であったか、どこまでが本当であるかが分かりませんけどです、ね。何十年の間に初めて、そこまで言うて頂く先生は、今までかってございませんでした。そこまで私に、信心の目を開いて下さいました方はございませんでしたと。今日は、大変なおかげを頂いて有難うございました。また、御引き寄せ頂きたいと言うて帰られたんですけれども、もう、その方のことから、そう思うのです。ね。心が腐ると。問題は、どういうような場合であっても、ね。そこに、自分というものを自分で見捨ててはならないという事。もう、私のごたる、根性の悪い、私のような汚い、もう、辟易とするほどに自分というものが、もう、自分が自分で嫌になるようにある自分であってもです。すがることを忘れておる。すがらなければいけない。ね。こういう私でございますけれども、と、すがらせて貰うところにです。そういう、いわば、屑の子であれば屑の子であるほどに、有難い。心が腐っておるからこそ、ね。そこに、新たな、いわば、椎茸のようなものが、出来てくるようなもんです。ね。生き生きとした木に、椎茸は生まれません。その椎茸が少し、こまいじょ、こまいというか、腐った状態、ボクボクになるような感じのところに、椎茸の菌が良く付きやすい。そしてそこに、椎茸が、こう出てくるように、私共の心でもです。もう、自分で自分の心が恨めしい。自分で自分がもう、ほんとに愛想もこそもないごとあるという、それでも助けて貰わなければならんのが私達なのです。ね。それでも何とか助かりたいという願いをもたなければ、だからならんのである。もう、自分の様な者はつまらんからと、例えば、自殺行為に向けていくような人達もあるけれども、それでは助かりようがない。自分のようなものでもと、助けて下さるなら、救うて頂きたいと、こう、願うところにです。いわゆる、屑の子ほど可愛いという、神様の本当のお心、いわゆる神愛である。神愛に触れることが出来る。ね。そこで、私は、ここで一番助かり難いものは、どういう事かと言うと、ねえ、悪人のくせに、俺は善人のような顔をしているようなことだという事です。ね。口で真を語り、心に真のない人、だよね。口で愛して、心で憎んで、口で愛するような人。そういう人が助かり難いという事である。ね。もう、本当に、その人の心というものは汚い、汚い心を持ちながらです。いかにも自分の心は、綺麗ですと言わんばかりの様な、私は、顔をしている人が、助かり難いんだ、神様も、お助け下さるのに、お助け難いんだという気がします。ね。そこで、私共は、段々、信心分らせて頂いて、分からなければならない事は、自分自身というものを、いよいよ分からなければいけない。ね。自分というものをいよいよ、分らせて貰うて、自分の、お粗末さと言うか、ね。御無礼ものという自覚に立たせて貰うて、ね。こういう、お粗末後無礼者ではございますけれども、どうぞ、お許し下さい、お助け下さいというようなところへ持ってくるところにです。神様の心が動く。神様の愛の心が、そこに、動き始める。そこに、助かることが出来る。私のような凡夫、私のようなつまらん者、を、このようにおかげを下されて、有難し、勿体なしというような心も、だから、そこから生まれてくる。丁度、腐った木に椎茸が生まれるようなもの。ね。そういう心の状態に、神様の、いわば、おかげの菌といったようなものがですね、付きやすい。そこで、椎茸のような、思いもかけないような、いわばそこに、ま、菜葉がね。出来るようなもんです。そこに私は、御道の、おー、神観と、ね。神観とは、神を観るとこう書いてある。私共は、頂いておる神様を、そういう神様であるということを知らなければいけない。お供えをしなければ、助からんという神様ではない。ね。お供えが出来ないならば、お供えが出来ない程しの人ほどに、この神様は、おかげを下さろうとする神様であるという事を知らなければならない。ね。そして、どういうお粗末な、お粗末御無礼の私でありましたも、やはり、そこから、助けて貰わなければならない私達である。という事。ね。そこで、ほんなら、今日私が申します、助かり難いというのはです。自分はひとっつも悪人じゃないような顔をしている人です。自分な悪かこつは、いっちょんしよらんという顔しとる人です。ね。そういう人が助かり難いのです。うんにゃ、私は悪いこつは、いっちょんしとらんきんでと、というなら、まだ考え方が浅いのである。自分自身の心というものを、本気に、教えの鏡なら教えの鏡を前に立てて、自分というものを見てみたが良いんです。ね。天地の道理に反し、天地の御恩徳を踏みにじるような、ね。自分というものを発見する時にです。こういうお粗末な私でも、助かられるだろうかというような自分。それでもやはり、助けてもらわなければ、立ち行かん私達であるから、そこから、おすがりをする、お願いをさせて貰うて行くところにです。神様は、そういう人の上に、神愛の手を差し伸べて下さる。だから皆さん、自分が善人顔をしているという事が一番いけんのです。親鸞聖人様といやあ、それこそ、日本中の、おー、浄土真宗の門徒から、ね。当時は生き仏様のように言われたお方なんです。その方が、例えばもう、亡くなられる、九十幾つになられてからでもです。自分のような悪人はまたとなかろうと仰った。ね。自分のような汚い男はおるまいと、と、自分を見極められた。ね。ですから、私共に、それこそ置いておやであります。ほんとに、お粗末御無礼な私達であるという事を、先ず分らせて頂いて、そこから、お詫びをする心が生まれてくる。謙虚な心が生まれてくる。何時も相すみませんと言えるような態度が、自ずと出てくる。ね。こういうつまらない、お粗末な私ではございますけれども、助けて頂かなければならない。ね。そこに、どうぞ、そのお助けを願うと言う事。そういう心の状態の人をです。そういう状態の人程にです。神様はおかげを下さろうとする働きが強くなる。ね。自分の子供の中に、屑の子がおれば、その屑の子が可愛いのが親心であるように、神は、屑の子ほど可愛いと仰せられる。そういう、大悪人の自覚が出来た人ほどに、神様はおかげを下さる。という事になるのです。ね。ですから、自分な出来ておる。自分なしっとる。自分な、もう、おー、良か信者、自分は、あー、善人というようなですね。いわゆる、善人面をしている人ほど、神様の、やはり、お働きかけというものが、働きかけ難うありなさる状態である。ね。そら別に、ぬすどがんどはしよりますまい。人を殺したりも、しちゃおりますまい。傷つけたりもしちゃおりますまいけれども、心で殺しよる。心で傷つけよる。ね。心の底の、底を見たら、善人どころか、悪人である自分というものが分かってくる。そこにです、信心のやはり、尊さというかねえ。ほんとに謙虚になっていけれる、いわゆる、実意丁寧な人柄というものが、そういうところからできてくるのじゃないでしょうかね。もう、私のような、助かりようのないとを、何十年かを、いわば、道を求め旅しておられて、もう自分は助かりのないと思うておったところへ、たまたま、合楽のことを、ここの事を聞かれて、昨日、お参りされた先生のお話を、ま、させて頂いたんですけれども、その人の心の中に、それこそ、腐った心に、椎茸に菌をまかれたような思いで、昨日は帰られたんだなあと、私は思いました。どうぞ。